神楽坂遊歩

 久しぶりの「横丁学会」だが、あいにくの雨だ。
 雨の神楽坂も乙なもの、などと前向きに気持を切り替えて出発。
 外堀通り沿いの、飯田橋『佳作座』といえば、昔よく通った名画専門の映画館だったが、いまはパチンコ屋になっていた。思い出話をしながら『佳作座』の跡を横目で見ながら坂にさしかかる。
 ここから、未知の神楽坂探訪だ。
 いつ来ても行列のできている甘味処「紀の善」横の横丁、神楽坂小路を奥にすすむ。
 神楽坂小路の右手の路地「みちくさ横丁」は、坂道の初っぱななので、高低差があまりないため奥行きが狭く、行き止まりだ。確かめに路地に入ってみる。傘をさしていると二人で並んで歩けない、こういう地取りには生活感のない小さなスナックが多い。
 神楽坂小路が軽子坂に突きあたるところに、ピンク映画専門館と、ギンレイホールがある。昔と同じ場所かどうかさだかでないが、ちゃんと残っていた。入ったことはないがなんだか嬉しくなってくる。いつまであるかわからないので、記念写真を撮る(歳を取ると恥じらいという言葉がどこかにいってしまうのか?ポルノ映画のポスター入り映画館の写真)。
 引き返してメイン通りにもどり、また坂をのぼる。

このメイン通りは、ほとんどの店が代替わりしていて、フランチャイズの大型店の飲み屋も多い。昔から続いた店をたたみ、ビル経営に切り替えた人たちも多いと聞いたことがある。
 雨にもかかわらず若者でごった返す表通りからは、そうそうに横丁に入り込む。
 神楽坂仲通りに入ると、サイコロ石の石畳が美しい。一本横丁を入っただけで神楽坂は表情を変える。「兵庫横丁」の奥には曲がりくねった石階段がありしばらく歩き回っているうちに、方向感覚がなくなってくる、どの路地も人ひとりが通れる道幅だ。
「かくれんぼ横丁」は、先の見通せない細い路地に、新しくつくられた黒板塀の高そうなレストラン、向かいは小粋な前庭つきの小民家、だがあまりにも洗練されているので隠れ家が売りの店? それとも小唄のお師匠さん宅? 神楽坂の路地にはこんな、どう判断していいのか分からない場所がたくさんある。なんとも不思議な空間なのだ。
 これまで暮らしてきた感覚というか目安感が、ひどく曖昧に思えてくるのだ。この心もとなさ、心細さ、にもかかわらず心地よさ、安心感という真逆な肌感覚も覚えたりする。
 日常生活の隣にさりげなく結界があり、一歩足を入れたり出したりすることによって、この二つの感覚世界を味わえる。これはある種の冒険であり、これが神楽坂の魅力なのだろう。
 雨の中、うろうろとあっちに行ったり、こっちに行ったり。そしてもどったり! 神楽坂三業組合「検番」の近くには、「銭湯」や懐かしい「マーサ美容室」(昭和13年創業)も見つけた。懐かしいといっても行ったことはないのですが、なぜだか名前だけはしっかり覚えていた。子どもの頃お正月の髪結いさんのニュースでよく耳にしていた、日本髪を結わせたらピカイチの美容院。なんだかここあたりだけ昭和初期の匂いがする。
 しかし神楽坂の路地には、もうひとつ別の世界がある。
 東京理科大学キャンパスの裏手、若宮小路あたりだ。ここは江戸時代には武家屋敷があった地区である。高級ホテルかと見間違う、オークヒルズ。日本庭園に囲まれた高級賃貸マンションで外国人に人気なのだという。神楽坂の喧噪はここまで伝わってこない、閑静な住宅街である。ここでは上品さや、快適さを感じることはあっても、異空間的なものはないのである。まさに今、現在の時間の流れの中にある。

 どこに住んでいても時代の波に翻弄されないところはない。神楽坂も同じである。明治維新を経て、関東大震災、空襲──敗戦後の焼け跡から、高度成長期を経て、この低成長期である。神楽坂は戦禍に焼かれることはなかったが、建物疎開は免れず、取り壊しになったところもあったという。
 繁華街だとはいえ、昼間おまけに週末である。路地奥のお店は大部分が閉まっている。何屋さんか分からないところは、夜行けばはっきり分かるところも多いだろう。その時にも不思議感覚はあるのだろうか?

寺本敏子

速報:南千住遊歩での疑問点を調べた


                    街歩きライター:望月七郎
 この度たび「南千住遊歩」に参加しました。

 参加者の皆様お疲れ様でした。
 さて遊歩の最中、数々の疑問点に遭遇するのはいつものこと。
今回も数々の面白いものを発見しました。一部調査ができましたのでご紹介致します。


1.延命寺の立札

(写真1:延命寺の立札)
(写真1:延命寺の立札)

 先ずは最初に訪れた南千住駅前の延命寺です。山門前に「山門不幸」と書かれた立札があり
ました。どんな意味なのか? 判りません。そこで調べてみました。
「山門不幸」とは、このお寺の住職またはその家族などが亡くなった時に掲げられるものだそうです。亡くなってか49日、長いところでは1年くらい掲げられているのだとか。


2.吉展ちゃん地蔵

(写真2:回向院の吉展ちゃん地蔵)
(写真2:回向院の吉展ちゃん地蔵)
(写真3:円通寺の吉展ちゃん地蔵)
(写真3:円通寺の吉展ちゃん地蔵)

 次に訪れた回向院、延命寺のお隣ですが元はといえばどちらも小塚原刑場の跡地に建っています。回向院山門脇に「吉展地蔵」がいました。これは50代以上の方なら、少なからず記憶に残っているであろう有名な誘拐事件「吉展ちゃん誘拐殺人事件」に関係しています。この「吉展地蔵」が回向院から少し離れた円通寺にもいるのだ、というのです。何故2箇所に? これが疑問点です。調べました。
 事件発生2年3ヶ月後に犯人が逮捕され、自供により吉展ちゃんの絞殺遺体が自宅から700m程離れた円通寺の墓の石室で見つかった。ところが吉展ちゃん一家は回向院の檀家だったそう。そのため吉展ちゃん供養の地蔵尊が境内に建立されたのだそうです。そんな理由から回向院と円通寺2箇所に地蔵尊がいるのでしょう。但し円通寺の地蔵尊には「吉展地蔵」の表示がありません。この理由は判りませんでした。小林先生は「以前は確かにあった」と言われていました。
3.新門辰五郎

(写真3:円通寺の吉(写真4:円通寺の新門辰五郎碑)展ちゃん地蔵)
(写真3:円通寺の吉(写真4:円通寺の新門辰五郎碑)展ちゃん地蔵)

 円通寺の彰義隊墓所に「新門辰五郎碑」がありました。この方はどんな人物か?というのが疑問点です。
侠客にして町火消し……2年ほど前の人気TVドラマ「仁」にも登場した歴史的人物。これくらいしか判りませんでした。
調べてみました。
江戸末期の町火消、侠客。江戸・下谷生まれ。上野輪王寺に仕える町田家の女婿となり、浅草寺に新設の門の番人となり新門を名のる。辰五郎は町火消十番組の頭取と浅草奥山の香具師・大道商人の取締りを兼ねる侠客で、大名火消しとの喧嘩がもとで捕らえられ、佃島に送られた。獄中で1846(弘化3)年正月の江戸大火にあい、囚人を指揮して消火に大活躍し、特赦された。輪王寺宮が浅草寺の別院伝法院に隠棲する際に、新しい通用門を新設し、その門を辰五郎が守ることになった、それで新門辰五郎と呼ばれる様になったという。
 また、辰五郎の娘は将軍「慶喜」の愛妾。
 上野戦争の折には、彰義隊に協力し鉄砲よ
けの米俵を運搬したりした。そのため彰義隊の墓と共にここに碑が建てられたのでしょう。新門辰五郎のお墓は西巣鴨の盛雲寺にあるのだそうです。
 実は未解決の疑問点はまだ残っています。

路地裏を制する者 銀座を制す

街歩きライター:望月七郎

銀座、とりわけ五丁目から八丁目は路地裏の宝庫といえよう。

写真1:銀座 交詢社ビル
写真1:銀座 交詢社ビル

 金春通りや並木通り等の裏通りに建つビルの谷間を縫うように路地裏はある。

 路地裏には名店がひしめいている。

写真2:銀座路地裏の名店「ビストロ・カシュカシュ」
写真2:銀座路地裏の名店「ビストロ・カシュカシュ」
写真3:銀座路地裏のお稲荷さん「豊岩稲荷」石塔
写真3:銀座路地裏のお稲荷さん「豊岩稲荷」石塔

 昭和の香りが残っている。お稲荷さんなど江戸の名残りが潜んでいる。銀座を知り尽くした方が足を運ぶカフェがある。
 派手な銀座通りに面したブランドショップも良いが、路地裏を制したいものだ。


 日中はセレブな奥様、デートの若者、外国からの団体旅行者を表通りで見つけることができる。しかし夜は勤め人の天国。

 たまに「自分へのご褒美」とばかりにOL達はお洒落なビストロやイタリアンレストランでプチ贅沢。

写真4:銀座路地裏のハワイアンライブハウス
写真4:銀座路地裏のハワイアンライブハウス

 めでたく管理職に昇進した小父様たちは銀座の和食店や酒場に待望のデビューを果たす。行きたくても行けない平社員の羨望の視線を背中に感じながら。でも、もっぱら自腹ではなく、会社の接待費を遣うというのが実情だ。
 彼等を表通りで見つけることはできない、みな路地裏に潜伏しているからだ。
 さてここでは小父様達に焦点を絞ろう。小父様たちは昔からの慣わし、社用と称して銀座にお得意様を招待する。

写真5:銀座のクラブ、スナック街
写真5:銀座のクラブ、スナック街

 まず一軒目は和食の料亭か寿司屋で豪華さを演出。問題は二軒目、だいたい銀座八丁目から九丁目辺りのクラブ・スナック街だ。気持が大きくなってきたお得意様の横に気の利いた女性をはべらせてお酒が飲めるお店。会社としても馴染みの店をつくって、女将と親しくなっておかなければならない。なぜならお得意様を上機嫌にさせたいから、それを女にお任せして、自分はしばし休憩したいからだ。そのためには一軒目から二軒目への移動は最短距離を行き最短時間で到着する必要があるのだ。このために路地裏に精通することが必須なのだ。
 接待する者も人間、二軒目のお店にはお気に入りの女性もできてくる。
そんな時は自腹を切って、くだんの女性と待ち合わせ、食事をしてから女将のお店に出る。
いわゆる同伴出勤だ。しかし同伴出勤にも時間制限がある。たいていお店は一九時開店だから、遅くとも二〇時半までに入店する必要がある。
ビストロで食事なんて贅沢を考えれば二時間は欲しい。自ずと待ち合わせは一八時半。二時間たっぷり食事をしたら、お店に急がねばならない。そこでも最短距離・最短時間での到着が要求される。つまり路地裏を制するという高等技術習得が要求されるのだ。
 なんてバカなお話は全て聞いたこと(笑)。
これくらいにしよう。
 さてこんな路地裏ができた銀座の街の歴史を探ってみたい。銀座はかつて海であった。銀座は徳川幕府開府の際、神田駿河台の丘陵地を崩し、その残土を使って海を埋め立てて平地を造った地域だったのである。その銀座界隈に、金春・観世の能役者の屋敷が与えられた。武家はここで酒席を開き、能役者の仕舞いを鑑賞した。お気付きのように武家の酒席には女性は介在しなかったのである。女性は下働きだったのだ。ところがその後、躾(しつけ)が行き届き舞踊ができる女性が酒席にはべるようになっていった。
 これが金春芸者の発祥である。その名残りを示すように、今も金春通りと呼ぶ裏通りが存在する。これが明治維新以降は新橋芸者となっていくのだ。勤皇の志士たちは京都・祇園からこちらへ移動する。兼ねてよりあった芸者衆の地域といえば芳町・柳橋・深川だが、新橋は新興の芸者衆。考え方も新しく、脚光を浴びる。明治の元勲の奥方に納まった方も多いという。主役と脇役の大転換といえるのかもしれない。そんな芸者衆が通った銀座の路地裏。銀座の路地裏文化を創り、守っているのは紛れもなく女性達なのだ。

東京電燈プレート

マンホールウォーカー 馬明

 最初に簡単な自己紹介をします。東京生まれの横浜在住です。現在は一週間に最低1回は帝都マンホールウォークをしています。蓋探しは現地へ遅めに入って早めに切り上げるスタイルです。基本的な歩き方は地図を見て歩く綿密型では一切なく右往左往型です。なので、同じ場所を何度も歩きます。それが実際はレア品を拾い上げるきっかけともなります。

 今回取り上げる東京電燈プレートはマンホールウォークしていたときに、偶然見つけました。レア品の発見とは何時もそのようないい加減さからくるものです。

 この一例をあげれば、江戸川上水町村組合の右書き単口消火栓を足立区千住3丁目で見つけたときがそうでした。丁度前を歩いていた男性がした酷い咳に顔を背けたとき、単口消火栓と目が会いました。何時もこんな具合です。この単口消火栓の残存事例の公開は、路上文化遺産データベースでは唯一のものです。

 

東京電燈とは

 東京電燈は、1883(明治16)年215日に国から会社の設立許可を受けた日本最初の電力会社です。

 この東京電燈の事業は、1942年4月に、国家総動員法と配電統制令に基づき、甲府電力、富士電力、日立電力と合併して設立した関東配電に引き継がれました。この関東配電が現東京電力の前身です。

 

東京電燈プレートの発見

 さて、本題に入りましょう。東京電燈プレートなど古いプレートは廃木造家屋で見つけています。

 この写真のように、東京では意外なほどにこのような古い木造家屋がまだ健在です。(写真1

 遠目からはわかりませんが、紫色の矢印の場所に東京電燈プレートがありました。

 

 東京電燈プレートがあった場所を、大写しにしたのがこの写真です。(写真2

 一番上に東京電燈プレートがあり、その下に右書きで記された東京都私設下水道章標があります。ちなみに、道は旧字体の二点しんにゅうです。

 このプレートの下には、時の時代を表す「ゆすり たかり 押賣」御断りの真っ赤なホウロウ板があります。

 今は振り込み詐欺などもっぱら電話やパソコンが主流ですが、昔は一軒一軒こまめに歩いた訪問詐欺が多かった当時の世相を表しています。

 

 東京電燈プレートは八角形で、配電エリアである三河島の上にあるのが東京電燈の社章です。

 社章のデザインは電気技術史第43号によれば、三相交流発電機の形状を図案化したようです。(写真3

 東京電燈プレートの発見事例を調べると、かつては北区滝野川の古民家に存在しましたが、建物が解体され東京電燈プレートはもうありません。なので、上の東京電燈プレートはいまだ未発見の残存プレートを含め貴重な1枚といえます。

 

 最後に東京電燈は神奈川県内に電力を供給してきました。これは1941年下期大口電力需要者上位リストの供給電力量をご覧ください。(図1

図1

 この図からも、横須賀海軍工廠がダントツの大口電力需要者であるとおり、太平洋戦争の世相が色濃く反映されているのがわかります。

 

 このように東京電燈プレートは大変珍しい路上文化遺産といえます。

 

本稿は「馬明の路上文化遺産と投資のブログ http://blogs.yahoo.co.jp/aqua01242000/archive/2013/03/21」の記事を加筆したものです。

小径さんぽ

吉村生

 都心にほそぼそと、江戸の川跡が残っていることがある。そのひとつ、“浜町川”をある夏、仕事帰りに歩いてみた。浜町川とは、箱崎川の分流で元和年間に東日本橋あたりまで開削され、元禄と明治期にさらに延長されて神田川と合さるという、南から北へとつくられた人工の掘割である。
 岩本町駅の近く、靖国通りをぶらぶらと歩いていると、三角形の植え込みのある空間が出現する。ちょっとした違和感……これは暗渠につきもののサインだ。交差点の名前も“大和橋”。浜町川に架けられていた橋だ。よく見れば、ビルの合間に細い細い道がある。(写真1

写真1 浜町川大和橋
写真1 浜町川大和橋

 プシッ! 用意していたウメッシュの缶をあける。ぐびり、ぐびり。つめたい炭酸とアルコールが喉にしみこむ。
 そこは、予想をはるかに上回る空間だった。すき間の道に、放置されたバイク。猫のきょうだいが戯れる……これは暗渠の雰囲気だ。こんな場所に、こんな空間があったなんて。
 まもなく、橋本会館のある一角がみえてくる。昭和の残像。戦後浜町川を埋め土地をつくり、馬喰町付近の露店を移転させた処だそうだ。いかにも昭和の香りのする“スター美容室”は移転、ほかの店舗は時が止まっているよう。うんともすんともいわない建物たちに、別世界に入り込んでしまったような心持ちになる。
 しばし風景に見とれて、手元のコイツを忘れていたことに気付く。熱帯夜だったので、ウメッシュはあっというまにぬるくなっている。飲み干して、さあ続きを歩こう。
 横に公園が現れ、川のモニュメントが見える。浜町川と“竜閑川”の合流点だ。竜閑川跡にも好い空間が広がるが、浜町川の細い道を歩き続けることにする。浜町川の幅は平均15m……結構広いので、この道イコール川幅なのではない。この小径はいうなれば、埋められた浜町川の息継ぎ場所なのかもしれない。
 そろそろ鞍掛橋。そんなに余力もなかろうと、鞍掛橋で帰るプランだったのに、気持ちがノッてきてしまい、思わず歩を進める。どこまでいってもまっすぐで狭いみち。見上げれば夜空が狭く、青黒く切り取られている。わたしの足は、ただただ、狭いビルの裏道をすり抜けていく。
 道は少しずつ空気を変えてゆき、中には現役らしき商店街もあった。鰻屋、すし屋、居酒屋。新しいビルやマンションもある。しかしそういうところでも、下水道局の敷地であることを示す立札がたえず立っていて、ここは川だと主張しているようで、うれしくなる。
 もう少しだけ歩いて行くと、さらに、雰囲気のある場所へ出る。……問屋橋商店街。2階、3階と積み重なった家々。日本橋周辺の露店が移転をさせられて出来た商店街だという、橋本会館と似た歴史がここにもある。むかしはもっとにぎわっていて、川跡には居酒屋がびっしりと並び、夜になると遊び人が押し掛けるので“泣く子も黙る問屋橋”と言われていたそうだ。居酒屋の名残は、今も少しだけある。しかし、どれだけの人がそれを知っていることだろう。(写真2

写真2 浜町川問屋橋
写真2 浜町川問屋橋

 その先、久松小学校脇は緑道のようになっている。この日は、ここで離脱。移動して居酒屋に寄り、電車に乗って家へ帰った。
 浜町川は、戦後の廃材により昭和26年まで(文献により若干ズレあり)にまさにこの日歩いた部分までが埋め立てられ、生き残った南部分も昭和49年に埋め立てられた。しずまりかえった、夜の小径。“泣く子も黙る……”と言われていた頃の、にぎやかな様子は知る由もないが、いまもにぎやかさの残る神田や人形町の裏側にひっそりと在る、かつての時代の凄みをしるす浜町川跡は、その存在だけでなにか“泣く子も黙る……”威力を秘めているような気がした。

※現在は、橋本会館は取り壊されマンション建築中です。
※本稿は「暗渠さんぽ http://kaeru.moe-nifty.com/ankyo/」内の記事を加筆・修正したものです。

 昭和にタイムスリップした裏路地――四谷荒木町

望月七郎

 私が四谷荒木町に出会ったのは6年ほど前。高校時代の同窓会が赤坂で開催されました。お開きになった後、幹事だった友人は面白い処(ところ)に行こう、とマジックバーに誘われた時のことでした。企画に乗った数名が四谷三丁目の交差点で、タクシーを降ります。ところが幹事は道に迷い、なかなか目的地に辿り着けません。連れまわされるまま歩いた迷路のような裏路地。まさに昭和にタイムスリップしたような佇まいでした。これこそが裏路地ラビリンスといった心境で、連れまわされる煩わしさよりも楽しい気持ちに包まれたことを覚えています。やっと着いたマジックバー、人気店なのでしょう、もう満員です。順番が来るまで、年配のご夫婦が営むレトロなバーに入って待機します。間もなく幹事の携帯に連絡が入り、マジックを楽しんだのでした。しかしマジック以上にあの街並みの思い出が消えなかったことは言うまでもありませんでした。

 

 それから6年の間に、私は脱サラし、興した会社が倒産。再出発の時、お金の掛らない楽しみとして“街歩き”をするようになります。当然、最初の散歩地として四谷三丁目を選びます。しかしこの時「荒木町」の町名は知り得ませんでした。またマジックバーの名前も。東京メトロ 四谷三丁目駅で降りて、風景の記憶に頼りながらやみくもに歩きます。ところが全くそのような街並みは発見できません。とうとう辿りつけないまま諦めて帰宅しました。

 家に帰り「レトロ」をキーワードにネットで検索しても、川越とか立石などの名称が出てくるばかり。そこで、マジックバーの所在地を探すことにします。そしてとうとう四谷三丁目駅から少し入った舟町荒木町に在ることが判明しました。

先日の私は、新宿通りを挟んで反対側を探していたのです。そうなのです。このように路地を侮ってはいけません。路地は1本間違えば、景色はガラリと変わります。路地は「此処(ここ)は違うよ!向かい側だよ」なんて教えてはくれません。でも路地は表通りとは違って優しい表情を見せて受け入れてくれます。路地とはそういうものなのです。そして1週間後、再度トライしてみました。すると、ちゃんとありましたよ!レトロな路地が……。違っていたのは最初の遭遇が夜の顔で、今回は昼の顔、ということぐらいでした。

 四谷荒木町一帯は、明治維新の頃までには美濃国高須藩藩主・松平義行(摂津守)の屋敷があった場所。この地域に接している津の守坂通りも、義行(摂津守)の名が由来となっています。明治時代には屋敷が退き池や庭園が一般にも知られるようになり、荒木町一帯は東京近郊でも名の知られた景勝地となり料理屋が軒を連ね芸者らが行き交う風情ある花街となったといいます。地域内には今でも車力門通り杉大門通りの通り沿いや路地裏などに各種飲食店が散見でき、かつての花街の風情を垣間見ることができます。そして路地とは切っても切り離せない飲食店。いささか四谷荒木町は敷居が高そうな気がします。しかしその後ブロガー仲間を募り、馴染みの居酒屋さんや、スナックを開発します。マジックバーも……名前は「八時」です。

 

 四谷荒木町、少し私の方に寄ってくれた、そんな気がしました。

(街歩きライター)

マンホール:帝大から東京帝大へ

戦争を繰り返す中で、明治政府は国づくりの一環として、優秀な官僚が必要性との考えに至った。これを組織的につくるため、新たに大学システムを構築へ。それまで、東京にしか設置していなかった帝国大学を全国展開することとなり、以降、それまでの帝国大学は他校と区別するため、東京帝国大学と改称された。マンホールはその変遷を物語る。

小林一郎

路地と井戸――明治期の町屋敷が残る本郷菊坂

本郷菊坂は、南に真砂台地、北に本郷台地が迫り、谷間を進む。江戸期の絵図を見ると「明地」(空き地)となっているため、菊の栽培でもおこなっていたのかも知れない。

このため、この地が開発されたのは、明治に入ってから。菊坂沿いに町割りがされ、それぞれ、坂を正面に町屋敷が形成されている。

町屋敷の形態は、オモテが戸建て住居、奥が長屋、という形式で、奥の中央部に井戸が設置される、という江戸からのコミュニティ形態が踏襲されている。

本郷の高台に生まれ育った樋口一葉は一時期(約3年)この崖下で過ごしたが、その後、台東区の竜泉に転居。再び戻ってきたときには隣町の西片(高級住宅街)に移り、そちらが終焉の地になっている。

小林一郎

三田・板蔵

萌え点付きのマンホール
萌え点付きのマンホール

“萌え点”を発見!

小林一郎

「横丁・小径学会」三田遊歩の際、萌え点付きのマンホール(「仕切弁」)を見つけました! 
「弁」の字の右上に「丶」がついているでしょう、マンホール・ウォーカーの馬明さんの話では、これを萌え点というんだそうです。
大ヒットです!

「横丁・小径学会」で板蔵発見!

小林一郎

「横丁・小径学会」三田遊歩で板蔵に出会いました!

これはとにかく貴重。先ず滅多に出会えません。

蔵というのは構造としては木造なんですが、通常は大壁にして壁土や漆喰で塗り固めます。でも、土で覆わないものもあるんです。それが板蔵です。大きな収穫でした!

出会った板蔵は、出入り口のところに植木鉢などが並べられ、出入りできないようになっていたので、現在は住んではいないようですが、出会えただけでも嬉しい!

おっぱい付き石蔵
おっぱい付き石蔵

蔵には“石蔵”なんてのも。おっぱい付きです!

小林一郎

普通、蔵というと土蔵や漆喰で塗り固めたものを思い浮かべますが、横丁・小径学会で出会ったように板蔵、それに室内にしつらえた内蔵(うちぐら)なんていうのもあります。それに加えて、石で築いた石蔵なんてのもあるんです。

写真は、重文指定された旧朝倉邸(東京渋谷区代官山)の石蔵です。

まあ、この建物自体に重文の価値があるかどうかは別として、石蔵というのも珍しい部類です。

おっぱい(通称です。正式名称はツブ)の上にL字状の折れクギも付いています。これは、付近に火災が発生した際、藁や布を濡らして掛け、もらい火を避けるためのものです。

内蔵
内蔵

蔵といえば家の中に設けた「内蔵(うちぐら)」なんていうのもあります

小林一郎

写真は、東京・世田谷の旧小坂邸。衆議院議員を務めた小坂順造の別荘です。建物自体は田舎趣味。かつては、田園趣味というのが流行った時代がありました。

この小坂邸は和室と洋室を設けたいわゆる“文化住宅”で、部屋の配置は雁行型。これは、文京区・千駄木の「旧安田楠雄邸」の雁行型と違って、両翼を備えた綺麗な雁行。その母屋の中に「内蔵」があります。

蔵にもいろいろあるでしょうー。

ちなみに、1940年3月9日の東京大空襲(一般的には陸軍記念日の3月10日といわれますが、9日の夜から空襲がはじまりました)の際、都内には記念日に合わせて大空襲が来るとのうわさが立ち、上野・池之端の横山大観は急遽、世田谷(当時は郡部)のこの小坂氏の別荘に逃げ難を逃れたという曰く付き(?)の家です。

初音小路――袋小路だがスナック街にならず、開かれた路地が形成されている貴重な存在

JR日暮里駅の西、諏訪通り沿いに、「初音小径」はある。入り口には象牙屋、道路を隔てたはす向かいには錻力屋、というシチュエーションである。

小林一郎

千住・ラビリンス

幅員4m以下の路地には商店街の街路灯が設けられず、

袋小路の路地にはスナック街が形成される

典型的な路地ラビリンスのまち

江戸時代の絵図を見ると、旧日光街道沿いに、綺麗に町割りが形成されている。町割りされたエリアは、定規で引いたようなまっつぐな道によってまちが形成されている。しかし、その先は農地。

現在、旧街道沿い数十メートルから離れると、そこは細い路地から路地へ。迷路の世界が現れる。路地と赤提灯。これが、なんとも魅力的!

千住のやっちゃ場(東京都中央卸売市場足立市場)

江戸の三大市場のひとつ千住のやっちゃ場は隅田川と旧日光街道が交差する地点に設けられている。

街道と川、それに宿場――という三題噺が揃う千住のやっちゃ場を探索してみよう。

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