第1回「横丁・小径/ガード下学会」千住遊歩

日時:2012年9月8日

場所:千住大橋から千住宿へ

ナビゲーター:小林一郎

参加者は、23区内の商店街を完全踏破された方や写真家、不動産鑑定士の先生、それに大学のデザインの先生やエクステンションセンターの講師など。スタートは、京成線「千住大橋から」。茨城県からいらした方もいらっしゃったので、ちょっと観光気分で最初に隅田川を渡る千住大橋を訪ね、芭蕉の矢立初めの地を探訪。そのあと、橋戸神社で伊豆の長八(伊豆長)の鏝絵を鑑賞。伊豆の長八は江戸時代の生まれで谷文晁の弟子・狩野派の喜多武清から絵や彫刻を学んだ左官屋です。仕事で使うコテを使って漆喰壁に彫刻(レリーフ)を描き、漆喰絵の世界を構築したことで知られています。通常は、蔵の妻や平側上部に施主の家紋を描いたり「水」など火除けの文字を入れたりという程度ですが、伊豆の長八は絵画の世界。この千住のほか、わずかに北品川の神社にも残っています。橋戸神社では祭りなど、年数日しか本物は公開されませんが、そのほかでも神殿前にレプリカを展示してくれています。今回はこのレプリカを観賞。狐の親子の情愛を映し出した見事な鏝絵です。その後、江戸の三代やっちゃ場の一つ、現在は東京都中央卸売市場足立市場を探訪。午後3時近くなっていたため、取引は終了していましたが、「鮨商買出人組合」といった看板が掲げられている駐車場や場内の食堂、神社(干潮金毘羅宮:千住のやっちゃ場は隅田川に隣接)など、魚河岸の雰囲気を満喫しました。この後、本来の横丁・小径学会スタート。旧日光街道の街路とそれに沿って出きた町割りと横丁、それに路地を探検しました。

第2回「横丁・小径/ガード下学会」本郷菊坂遊歩

日時:10月27日(土)

時間:午後2時~

ナビゲーター:小林一郎

集合:東京メトロ「本郷三丁目駅」

   改札口前

コース:本郷通り、落第横丁、金魚坂、菊坂上道、下道等。

江戸の名残を残す明治初期の町割りと町屋敷を探索しました。

 

「横丁・小径学会」本郷菊坂遊歩(1)

今回も参加者は8名。

スタートは本郷三丁目交差点の「かねやす」から。「本郷も かねやすまでは 江戸のうち」と川柳にまで詠まれたかねやす。江戸城からこの本郷のかねやすまでが防災上の理由から瓦葺きが奨励された地域です。

このかねやすから東大前を通るのが旧中山道。現在の本郷通りで、これが表通り。現在の道幅を測ったところ、実測で14mありました。この本郷通りに面しているのが東京大学。まずは、赤門。りっぱな薬医門です。

東大は、かつて“帝大”と呼ばれた学校。さまざまな学校を吸収した組織でしたが、戦争を繰り返す中で優秀な官僚の育成を痛感させられた政府は大学制度の構築を図ります。それが帝大制度で、京都や福岡など主要な都市に帝大を新設し、全国規模で優秀な官僚の育成を図りました。これにより単独であった本郷の帝大は“帝大”から“東京帝大”へと名称変更。さらに、戦後、占領軍(アメリカ)から日本の教育制度は「封建制そのものだ!」と批判され、現在のような誰でもが大学に行ける民主的な教育制度(単線型教育制度)に移行しています。

*封建的というのは戦前の教育制度は「複線型教育制度」といって、小学校(小学校→高等小学校)で終わる子どものコースと、高校、大学へと進む(小学校→中学校[女子は女学校]→高校[女子大は高校に相当]→大学)子どものコースが小学校卒業の時点で分けられていたからです。欧州ではまだこうした制度が残っています。

この官僚育成制度が、東大本郷キャンパスのマンホールに残存。マンホールの蓋には「帝大下水」とか「東京帝大暗渠」、さらに「東京大学」――と記されているのを探索しました。

この後、「落第横丁」へと進むつもりが、東大構内はワンダーランド。見るもの聞くもの何もかもが興味津々。ということで、長い長い寄り道の探訪になってしまいました。

 

本郷菊坂遊歩(2)

14mほどある表通りの本郷通りから、路地というより犬走り(建物の軒下の部分で、砂利を敷いたりコンクリートを打ったりしたところ。これは構造物を保護するために設けられるものですが、建築や土木の世界では、犬が通れるくらいの幅しかない道ということで犬走りと呼んでいます)を入って裏通りへ。途中、押縁下見板張りの家を発見し、みな感動! 板張りの家は人のぬくもりが伝わり、なんともいえないあじがあります。

裏通りを進むと、そこに現れるのが「金魚坂」。ここは江戸時代から金魚を商っているところで、休日には金魚すくいやザリガニ釣りもさせてもらえます。

そこで、出会った子どもにビックリ! 大人がやったら一発で破けてしまって一匹も掬えないのに、何十匹も掬っていました。コツを会得したというより、熟練工の手さばき。けっこう、身近なところに達人はいました。隣にいたお父さんもニッコリ!

*押縁:板張りを押さえるために取り付ける細い棒状の部材のこと。

 下見:外壁などに張る横張りの壁のこと。

 下見板:下見に張る板のこと。

 

本郷菊坂遊歩(3)

本郷菊坂を進むと左手に肉屋さんが現れます。ここで「菊坂コロッケ」を購入。立ち喰いできるように(?)一つ一つ袋に入れてくれて、店の前でほおばりました。時間は午後3時過ぎ。昼でもなく夕刻でもなく、という中途半端な時間帯であったにも関わらず、温ったか~い。それをほおばると、サクッとした食感。次いで、ほどよい大きさにカットされたじゃがいもに美味しさを予感させられたのち、じゃがいもを漉し、味付けられた食材がとろ~りと口の中に広がります。みなこのコロッケで満足! 美味しいコロッケをつくってくれるお父さんとお母さんに感謝!

この肉店をあとにもうチョット菊坂を進むと途中から上道と下道に分かれます。この上道と下道に挟まれたエリア(家一軒分の幅)、江戸時代の切り絵図を見ると、「明地」および「アラツ」、つまり未使用の荒れ地であったことが判ります。(菊坂の名称は、このエリアで菊を栽培していたから、という説もあるそうです。小生は、その当時生まれていなかったので、真偽のほどは判りませんが)

下道はかつて、下水が流れていたところ。このあたりが、本郷台地と真砂台地がぶつかり合った谷間で、左手の真砂台地の上は坪内逍遙が住んでいたことで知られていますが、明治時代の地図を見ると、華族さまがあちこちに住んでいたこととが判ります。その旧真砂町(現・本郷4丁目)の上へは炭団坂から。

急な階段の炭団坂を登り切ると、崖下の街並みが一望。暗く、湿気た空気があたり一面を覆っています。この下町の風景を逍遙たちは見下ろしていたのでしょう。

崖下の街並みは、水路を伴った下道を表道路にし、表側に住居。その住居と住居の間に路地を通し、両側に長屋を列ねる。奥には共同井戸を配置――これが町屋敷のパターンで、その町屋敷が現在も並んでいます。

この崖下には、一時期、樋口一葉が住んでいました。もともと一葉は、本郷台地の山の上の生まれ。本人も現在のお茶の水大学付属小学校に通ったこともあり、兄は現在の明治大学を卒業し、財務省に勤めたという家柄。まあ、決して、不憫な生活をしていたとは思えませんが、家督を継いだ兄が病死し、そこから生活が苦しくなったようで、ここ本郷台地の下、菊坂の長屋に暮らしました。ただし、数年後には、下谷での生活を経て、お屋敷町の西片(菊坂から数分のところ)に移り、そこで短い生涯を終えています。

「横丁・小径学会」は、この一葉が住んだ町屋敷を探訪。現在、皆さん実際に住んでいる方がいらっしゃるので、静かに、静かに訪問させていただきましたが、そこに新たに二人づれが訪れたため、奥の鎧坂へ待避。そこで、一葉の長屋について解説していると、さっきまでの二人ずれが一緒に参加して、話をうなずきながら聞き出しました。これはよくあるパターンで、大学のフィールドワークの公開講座などでも見知らぬ人が途中から話に参加する方が現れることはよくあること。今回も、ひょっとしてと思いを巡らせていると、消え、再び一人だけが現れ……。

 

本郷菊坂遊歩(4)

ちん入者が消えた!

ちん入者はガイドブック持参で歩きまわっているようで、口に手やハンカチを当て、酒のニオイを消しながら「一葉が住んでいた長屋はどこですか」など、われわれに問い掛けてきたので「最初はこちらの家の入って、その後、目の前の家に移ったそうで……」などと見てきたような観光案内を紹介、その後、路地から見ての表通り(下道)に出て、固定式のゴミ箱や大谷石の養壁などを観察。「へ~ぇ、こんなものも残ってるんですね」と「横丁・小径学会」に融け込んだ後、自然にいなくなってしまいました。

唐破風・御殿造りの銭湯を覗いた後(湯舟や更衣室を覗いたわけではありません)、菊坂に出て、一葉が通っていたといわれる質屋さんを鑑賞。東京では珍しく矢来のある日本家屋です。

一葉が住んでいた崖の下は江戸時代、荒れ地と記されたエリアでしたが、こちらの質屋側(上道側)は江戸時代からの町屋。通りに面して表店があり、その横の細い路地を伝っていくと両側に長屋、その先に共同井戸、さらにその先にはアイ・ストップとなるイチョウの高木が立つ、という典型的な町屋敷です。

このイチョウが巨大。重機は入らないだろうし、第一、剪定はどうしてるんだろう、(静かに)疑問を投げかけ合っていると、ガラッと玄関が開く音。「ウルサイ! ここをどこだと思ってるんだ!」と叱られると思い、条件反射でみな萎縮。そっと顔を音の方向に向けると、「そのイチョウね、ほんと、ハッパがいっぱい落ちてくるんですよ。でね、役所が補助金だしてくれてね」と懇切丁寧に袋小路のイチョウの樹について教えてくれました。いや~、感激。一葉の側は「一葉旧宅」等の表示は一切なし。そりゃ、現在住んでいるので、観光客に来られて、勝手なことしゃべられて、一日中ワイワイガヤガヤなんてまっぴら、というのもわかります。ということで、結構一葉の路地は見つからなくなって消え、ある評論家も「一葉の旧居宅をツブされた!」と雑誌に書き、その後、競争相手の出版社から、ありもしない話をでっち上げした、と批判されたこともあります。これは、地元でも(小石川周辺をスーパーの袋をぶら下げて、サンダル履きで昼間からフラフラ歩いているオジサンというと、その著名な評論家と小生ぐらい、とも言われています)判りづらいエリアでひっそりと暮らしていますが、質屋横の町屋敷は大らか!

そこで、[路地と住民意識の開放度]について一言。

古くから住んでいる人たちがいる地域、したがって住民の年齢も高くなるのですが、そうしたエリアでは、他人が路地中に入ってくることにほとんど抵抗感を示しません(小生自身、朝、谷中を自転車で通っていると見知らぬステテコ姿のオジサンや出会い頭のおばさんにオハヨー!といかにも知り合いのように挨拶されます)。ところが、新しく移転してきた方々、および若い方々は自分たちの路地の中に入られることに違和感、不快感を示す、という統計数字があります。この若い方たちは隣人の生活音も“騒音”と捉える傾向があります。「横丁と路地」も奥深い?

 

番外編「横丁・小径/ガード下学会」常陸太田遊歩

番外編「横丁・小径学会」常陸太田遊歩を行いました。

集合:常磐線「勝田駅」改札前

日時:1124

時間:午前1030分~

ナビゲーター:斎藤


齋藤さん、奈良さんの案内で1180年源頼朝と戦った佐竹氏の居城を巡ったのち、常陸太田の街並みを散策。旧市街地は鯨の背といわれる細長い台地にあり、その一番の奥が太田城。鯨の背には台地の長手方向に向かって二本メイン通りが敷かれ、そのメイン通り沿いに綺麗に町割りがされていました。その一つ、米屋さんを訪ねると、奥行き14間(25m以上)。凹凸の地形を崩すことなく、地形に沿って家屋が建てられていました。ということで、なんと通り土間に起伏が! C.アレグザンダーは1984年、わが国で自然と一帯となった学園を造りあげましたが(盈進学園・埼玉県入間市)、それより遙か昔から、自然と共生する形でのまちづくりがされていたことを教えられました。常陸太田の街並みは、土蔵造りが基本。しかも、みな平入り。だから間口が広い。その広い店蔵(みせぐら)の隣りに冠木門等の門を設け、路地づたいに奥の自宅に入る、というパターンでした。奥行きの深さは皆同じ。これは、間口で税金を徴収していたはずなので、深さを一定にしていた、ということの現れ。奥行きが一定なら間口を掛けるとすぐに面積が出せますが、いちいち面積を出すまでもなく、間口だけで広さがわかる、というわけでした。

第3回「横丁・小径/ガード下学会」銀座遊歩

日時:12月8日(土)
時間:午後2時~

ナビゲーター:寺本敏子


集合:JR有楽町駅・京橋口(交通会館に近い側)改札口前
コース予定:銀座松屋、銀座ヨネイビルディング、奥野ビル、鈴木ビル、三原の地下街、三原小路、銀座コアの路地、GREENの路地、豊岩稲荷、金春湯(一風呂は浴びません)、新橋見番、土橋周辺の路地etc.
江戸の町割り(街区)を探訪。

 

小林氏に急用が入ったため、急遽バトンタッチされて銀座の路地めぐり。京橋の欄干(明治8年石造り、大正11年石造りランタン付き)を見学。京橋を境にして、日本橋と銀座の町割りが違うのを確認する。

中世ロマネスク調のヨネイビルは、現在、洋菓子屋さんが入っているのを外から見て、昭和7年建設の奥野ビル(旧銀座アパートメント)へ。

奥野ビルは、若い(?)アーティストのギャラリーやアトリエになっていた。板張りの床に、小さく仕切られ白く塗られた箱のようなスペースに、ギャラリー、アトリエのほか、アンティークやら、こだわりのセレクトショップなども入っていて、どれもこれも楽しい店作りだ。

次は鈴木ビルへ。ところが心配していたことが起こってしまった。またもや消えてしまったのだ。今までに何度か探し歩いて、5回行って出会えたのは1回のみ。なぜかこのビルとは相性が悪いらしい。

ファサードや窓など、デザイン的に面白いのでぜひ紹介したかったのだが、すみません! 今回はパスさせてもらいました。(機会があったら探してみてください。鈴木ビル、銀座1-28-15

これからが、銀座路地歩きの本番です。

銀座四丁目の裏にある、三原小路。2030メートルくらいだろうか。石畳の小洒落た一角。ところがその裏に、ススで汚れた旧というか元というか、もうひとつの三原小路がある。

銀座のど真ん中にデンと存在し、まわりの喧噪も〈我れ関せず?〉と独自のスタイルを貫いてそこにある。そこの古〜いビルの2階に「大京会」という調理師斡旋所がある。ここは、知る人ぞ知る、関西方面から東京に働きに出る料理人の紹介窓口なのだという。TVでよくみる某有名料理人も、最初の一歩はここの門を叩いたといわれている。いくら実績のあるところでも、斡旋業は裏方の仕事。外観にお金を掛けないところは関西気質の現れだろうか? 必ずしも外見と実態が一致しているとは限らない見本のひとつだ。

今回の銀座遊歩の目玉は、「銀座裏路地めぐり」

中央通りのきらびやかなビルの細い路地を銀座78丁目に向かってウロウロする。ちょっと広めのスペースがあれば、飲料水の自動販売機や、自転車置き場(?)になっていた。

人ひとりが通れるだけの裏路地は、商品の搬入や、ちょっとした息継ぎの空間になっていた。表通りでは見られない、そこで働いている人たちの生活空間なのだ。日常のなかの「ハレとケ」。あたりまえといえば、あたりまえだ。

そのなかに、表玄関が路地にあるお店もある(鳥料理店、天ぷら屋、バーなどなど)。

そこでは、銀座で働く人たちの日々の本音も聞かれるのだろうか?

それとも愚痴や弱音は、銀座の外でいうのかな〜。などとたわいもないことが頭に浮かぶ。

銀座の路地は、奥が深い! もう一度、いや何度でも歩いてみたい裏路地だ。

解散は、新橋。今回はバタバタしていたため飲み会なし。

皆さん、ご苦労様でした。

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